
そんなこと、気にしても仕方ない、と思いつつ、とても気になるものである

いけばなも、それをいけたご本人から受ける印象も割と一緒なことが多い
草月には、花はいけると人になる、という教えがある
その言葉にはいろんな意味が含まれているけれど、
そのひとつは、いけばなはいけた人を映し出す鏡であるということ
いけばなを見るといけた人のことがなんとなく分かる、ということがある
初めてお会いする方から最初に受けた印象と違った印象のいけばなであれば、
あ、こういう方なのね
と思ったりする
わたしは自分のいけばなに、どんなわたしが見えるのか、さっぱり分からない

だけど、初めて指導を受ける講師の先生から
とてもやわらかい感じの花ですね、ご本人からの印象と同じですね
といった言葉をいただいたことがある

それっておなかに綿がたっぷり詰まっていてやわらかそうとか・・・

あるいは、
前屈が得意でぺったり床にくっつくことができる体のやわらかさとか・・・

そういうことじゃないよね・・・

去年、草月の会報誌に、わたしのいけばなの写真を載せていただく機会があった
そしたら、家元研究科でご一緒したご縁で一時期、親しくさせていただいた方が、その会報を見てひさしぶりに連絡をくださった
会報には名前は本名ではなく雅号でだした
その方はたぶん私の雅号はご存知でなかったので、名前は不確かだったけれど、いけばなの写真を見てわたしだと思ったという

やっぱり何か”わたしらしさ”があったらしい
ちなみに、そのとき会報に載せたのと同じ花材を使って自宅でいけなおしたのはこれ
自分では分からない何かが、うっかりいけばなに現れたりするのだろうか
きれいな花を使うのが好きだから、
さぞかしきれいな人がいけたのだろうと思ったら、なんだ


とがっかりさせてしまわないだろうか

とある講師の先生が、受講生たちに対し
自分のいけばなを人に見せる勇気のある人です

とおっしゃっていたことがあるけれど、
勇気というより、無謀とか無茶といったほうが良くないだろうか
わたしの場合は・・・


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